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夜書いた文章を朝読むと恥ずかしい理由

夜書いた文章を朝読むと恥ずかしい理由

昼と夜の間で引き裂かれていませんか?

夜書いた文章を、朝読み返してみたら、何だかちょっと気恥ずかしい…。こんな体験はありませんか? それは、自分の中で朝と夜のリアリティが違っているのが原因。つまり、昼と夜では別の場に身を置いているのです。

夜書いた文章は恥ずかしい?

夜書いた文章を、翌朝読み返してみると、なんかちょっと恥ずかしい。20代の頃、僕にはそんなことがよくありました。なんだか、やたらと熱かったり、やたらとまっすぐだったり。文章でなくても、何人かで熱く語り合ったことが、別の日に思い返してみると気恥ずかしく感じられた──そんな苦い経験のある人も多いでしょう。

夜、その文章を書いているときには、気持ちが高揚しているのです。「やれる! やってやる!」みたいに思って書いているのです。それを、翌朝の光のなかで読み返してみると…。「そんなの無理に決まってるじゃん…」とツッコミを入れたくなるのです。まるで、夜と朝では別人です。

でも、別人ではありませんよね?

人は一緒、どちらも自分です。異なっているのは、人ではなく「場」の方です。

夜と朝では別々の世界を生きている

「場」は「リアリティ」とも読みかえられます。夜の時間というのは、一人になれたり、内省的になれたりして、昼間のリアリティから距離を置きやすいですよね。自分の内側にある「本当の気持ち」を、心の奥からそっと取り出してみる。そして「やっぱりこれが大切だ」と、気づくことができる。こうした体験は、本来とても大切なものだと思います。

ずっとスマホをいじっていたり、テレビをみていたり、ずっとだれかと会話を続けたりしていては、自分の内側にフォーカスすることはできません。仕事に集中しているときも、自分の内側にはフォーカスできません。忙しくしている最中には、無理なのです。

もちろん朝でも昼でも、その気になれば自分の内側に向き合えます。多くの人にとって、朝や昼間は仕事などで忙しくしている、ただそれだけのことです。

本心を現実世界とつなげることができない痛み

夜書いた文章を朝読み返すと、ちょっと恥ずかしい。僕の場合、気恥ずかしさ以上に「痛み」を感じました。

確かに現実味は薄いけれど、それが僕の本心なんです。夜のリアリティ(=場)に助けられて出てきた、傷つきやすい本心。その本心は、昼のリアリティ(=場)では、生存が許されません。

そのことがわかるので、ちょっと「痛い」のです。

僕自身は、この活動を仕事にしようと決心する前には、もう毎日のようにこんなことがありました。自分のノートに、新しいアイデアやこれからの計画をまとめたり、日記のような文章を書いたり。あるいは本のメモを取ったり。そういうことをしていると、「なにかが前に進んでいるような感じ」がしたものです。

でも、翌朝目覚めると、ノートにメモは残っているけれど、そのメモと現実世界をとつなげることができないのです。そして、夜中に見当外れのことをしていたような気持ちが出てきました。

この「行ったり来たり」を終わらせることができたのは、「場の力」でした。

ノートのメモを、ただのメモで終わらせずに、会議のレジュメにする。イベントや、実行計画にする。話しやすい人にアポイントを取って、仲間になってもらう。そんな風に「場づくり」を続けるうち、夜と朝はつながってきました。ちなみに、いまの僕は、朝でも昼でも夜でも同じように文章が書けます。

引き裂かれている自分を統合する「場づくり」

夜の自分を馬鹿にしちゃいけないのです。確かに、ちょっと勢いに任せて言い過ぎたり書きすぎたりしていたところはあったかもしれませんし、雰囲気だけで選んだ言葉もあったかもしれません。でも、そこには自分の本当の願いが存在していたはずなのです。

「場づくり」は、夜と昼をつなげます。一晩にして、劇的な変化と成果を得るのは難しいです。でも、「着実な一歩」を踏み出すことはできるのです。

先ほど、夜に文章を書いたりノートをまとめたりしていると「なにかが前に進んでいるような感じ」がしたと書きました。たとえ世の中の人たちが、「お前はなにもしていない」「意味がない」と言ったとしても、「前に進んでいる感じ」が本当にしたのなら、そのフィーリングを、大切にすべきなのです。あなただけが、そのフィーリング=見えない前進を知っているのですから、きちんと認めてあげてください。結果は少し遅れてやってきます。

(文・長田 英史)