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「自分基準」で選択しないと幸せになれない
自分で決めたはずのに、「決めた」という実感や納得感がない。決めたのに、いつも自信がない。
もしそうなら、それは選択するときの基準が、「自分基準」ではなく「他人基準」になっているためかもしれません。
選択肢そのものに問題がある
「3つの選択肢があります。AとBとC、どれにしますか?」
こんな風に尋ねられたけれど、「これ!」というのがない。う~んと迷ってしまう。
「人気があるのはAです」
「確実性が高いのはBです」
「Cはあなたらしい選択かもしれませんね」
こうして色々と助言されても、やっぱり「これ!」という感じがない。
そんなとき、あなたならどうしますか?
「他人基準」で選ぶならお茶を濁せるわけですが、「これ!」というのがないということは、「自分基準」ではすべてダメ、自分にとっての正解が含まれていないということです。
そもそも、本当に選択肢は3つだけなのかという問題があります。
ABCだけ?
DやEやFはないの?
「進路選択」などは、こういうパターンが非常に多いです。人生の進路なんて、本当はすごくたくさんあるのに、だれかが勝手にカテゴライズして切り分け、“不要なもの”を除外して、ある程度選抜した上で、やっと目の前に提示されます。
だから、そのなかで「これ!」と思うものがある人もいれば、ない人もいます。
他人の考えと自分の考えを区別する
さて、「他人基準」とは何でしょうか?
他人の考えを参考にする、ということではありません。
いつの間にか、他人の考えなのに、自分の考えだと思い込んでいる。理由がわからないのに「こういうもの」と決めつけている。こうしたものが「他人基準」なのです。
「他人基準」なんていうと、自分の外側にあるみたいですが、違います。よく吟味せず曖昧なまま自分の内側に取り込んでしまい、他人の考えと自分の考えの区別がつかなくなってしまうのです。
親や社会から教え込まれたこと。周囲からの期待に答えて身につけたこと。
本当に頼りにできる「自分基準」を持つためには、まず、「自分の考え」と、「他人の考え」を分けなければなりません。
自分基準を育てるためのファーストステップ
それでは、「自分基準」を持つためには、どうすればいいのでしょうか?
難しく考えずに、気楽にファーストステップ。
「好き(快)─嫌い(不快)」というものさしを使ってみませんか?
どうすべきとか、だれがどう言ったとかを一度脇に寄せて、「それが好きか嫌いか」「気持ちいいか悪いか」「気持ちが上がるか下がるか」を、感じ分けてみるのです。そうした「感じたこと」の活用こそが、「自分基準」を育てることにつながります。
「感じたこと」と「考えたこと」をしっかり分ける
「感じたこと」というのは、感情や身体感覚など、言葉にならないような微妙なことすべてが含まれ、自分で選択できません。それに対して「考えたこと」は自分で選択できます。「感じたこと」は自分ですら選べないもので、それは「自分基準」に直結しています。
いくら評判がよくても、みんながそれを勧めてきても、「わたしは嫌い」ということだってあるはずなのです。
だから、まずは「自分がどう感じているのか」を知る必要があります。
周囲がみんなして「右に行きなよ」と言ったとしても、自分の感覚は「左に行きたい」と感じている。結論は左なのか、右なのか。感じたことを最優先しないとダメということではなく、それは「自由意志」で決められます。
自分の感覚が求める方向を知った上で考えて、選択する。それが「自分で選ぶ=自分基準を活用して選択する」ということではないでしょうか。
おまえは科学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。
いまはだれだってそれを疑やしない。実験してみると本当にそうなんだから。
けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。
けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。
(宮澤賢治『銀貨鉄道の夜』より)
(文・長田 英史)