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自由な場って何だろう?

背筋を伸ばすと自由になれる?

「みんなで背筋を伸ばしましょう!」

こんな声かけをしたり、されたりした経験はありますか?

アイスブレイクなのでしょうか、ワークショップなどの場でよく見かけます。

僕は個人的に、ちょっと苦手です。
促されても大抵は自然にそういう動きが出てこないし、仮にそれに合わせて背筋を伸ばしたとしても、違和感があって自分じゃないような感じがするのです。

自分じゃないような感じ──。
こんな居心地の悪いことはありません。

背筋を伸ばして得られる自由と、失われる自由

何かの加減で、場にいる人の心身が硬く緊張してしまうことがあります。

「それでは、みなさんで背筋を伸ばしましょう!」

ファシリテーターや進行役の人が、こんな風に声をかけて、みんなで一斉に背筋を伸ばす。
おそらく、可動域は広がると思いますし、広がった分だけは、自由になると思います。

自由が得られた、と言えばその通りです。

でも、先ほど書いた通り、僕はそういう場面はちょっと気持ち悪いんです。それに、「背筋を伸ばしましょう!」と言っている人が、どこか恥ずかしそうだったり無理していたりすると、気持ち悪さ倍増です。

本来、背筋など勝手に伸ばせばいいと思うのです。各自が好きなタイミングで、好きなように伸ばせばいい。5秒もあれば終わります。

とはいえ、ちょっとかしこまった場などでは、勝手に背筋を伸ばすことに抵抗を感じる人もいますよね。そんなときなら、「一斉背筋伸ばし」でリラックス出来るでしょう。

芝居がかった進行の気持ち悪さ

でも、一斉背筋伸ばし以外にも、方法はあります。例えばですが、こんな風にも言えますよね。

「長い時間着席していただいていたので、よろしければ背筋を伸ばしたり立ち上がったりして、一呼吸入れてください」

主催者として明確に許可を出すといいますか、「ありですよ」と宣言する。そう言って、自分が参加者の前で勝手に気持ちよ〜く背筋を伸ばせばいいのです。

ただ、このとき、自分が気持ちよく背筋を伸ばせないなら、要するにそうすることに抵抗感があるなら、乗り越えられない違和感があるのなら、無理してやらなくていいのです。変な感じになりますからね。主催者の内面は場に反映されますから、変な感じの場になってしまいます。

どんな場をつくりたい?

ここで主催者として向き合うべき問いが出てきます。
それは、「どんな場をつくりたいですか?」という問いです。

いまはリラックス=良いこと、とでもいうような風潮があります。でも、本当にそうでしょうか?

人の心身は、緊張と弛緩を行き来します。どちらかに偏ればいい、というのは間違いです。

僕が「最適の緊張」という概念を知ったのは、津村喬さんの気功のレクチュアでした。何かをするには、それをするためにちょうどいい緊張の度合いがある、という意味です。
冷静に考えてみれば分かることですが、いつでも何でもリラックスしていればいいというわけではないですよね。

取り組むことに対して、ふさわしい緊張感がある。この必要とされる緊張感からは、逃げてはダメです。緊張するのは、悪いことではありません。

2つの自由

「とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめ特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視角を反転する。四つの壁の中の世界で特殊性として、小さな窓の中の後景を普遍性として認識する機縁を与える。(中略) 窓が視角の窓ではなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。」(真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』筑摩書房)

呼びかけて、一斉に背筋を伸ばすことで得られる「自由」がある一方で、そうした場づくりの感性では、そこにいる人が自分のタイミングで勝手に背筋を伸ばせる<自由>を疎外してしまうかもしれません。

自分が何に囚われているのか、まずそれに気づくこと。簡単に済ませていることに、もし違和感を覚えたら、それをキャッチして疑ってみること。そこから、場の可能性はどんどん広がっていきます。

あなたがつくりたいのは、どんな場ですか?
求めているのは、どんな生き方・世界ですか?

(文・長田 英史)