言葉にならない思いもたくさんある
言葉に出来るのは素晴らしいことですが、言葉で説明出来ないこともたくさんあります。言葉にしたいもやもやと、放たれた言葉に乖離があれば、不正確だというだけでなく、話し手は自らの一部を損ないます。嘘の言葉で語れば、今度はそれに操られることになるのです。
「場づくり」をするときに、まず必要になるのは?
場づくりに必要なのは?
場所? お金? 人?
いえいえ、違います。
まず必要になるのは、あなたの思い=あなた自身です。
ただ、「思い」というのは外からは見えません。内側でどんなに強く光っていても、それだけでは外からは見えないのです。そのため、自分でその存在を認めて尊重することが第一段階になりますが、次はそれを外から見えるようにしなくてはなりません。そのとき、「言葉」が必要になります。
あなたの思いを説明出来ますか?
活動の場を立ち上げる際には、「ミッション(社会的使命)」が大切だと言われます。もちろん、それは言葉で表現されます。
でも、自分たちの活動の場が、何のためのものなのか。そこにどのような思いが込められているのか。それを語ることは、とても難しいことではないでしょうか?
SNSの時代になり、キャッチーな「言葉」の溢れる時代になりました。語られる「言葉」は、どんどん短く、そして軽くなっていっています。
そして、散見されるようになったのは、他人に対してわかりやすく説明した安易な言葉によって、自分自身を納得させてしまうケースです。周囲に向けて語った「建前」を、いつの間にか自分の「本心」だと思い込んでしまうのです。「話し手としての自分」は建前だとわかって話していますが、その言葉をもうひとりの「聞き手としての自分」がじっと耳を澄ませて聞いています。語られた言葉は、そうして話し手の心身に刻み込まれます。
感じたことのほとんどは言葉にならない
人は、たくさんのことを感じています。いまこの瞬間も、ノンストップで感じ続けています。そして、そのほとんどが、言葉にならない状態であなた自身の内側に保存されていきます。「氷山の一角」という言い方では足りないくらい、膨大な「感じたこと」の、ほんの少し、ごく一部分だけが「言葉」になります。
自分の感じたことを言葉にして語るのではなく、借りものの言葉で語った場合、それは「言葉にした」とは言いません。それは表現ですらないのです。
「本当に思っていること」とは違うことを話したり、表現したい内容を借りものの言葉で説明したりすると、人は必ず「違和感」を感じます。人の感覚は鋭敏なセンサーで、自分自身にその違和感を伝えてきます。
それを尊重するのか、無視するのか?
それは、自由に選べます。
たとえ無視しても、センサーは機能し続けます。違う言葉で語ってしまったときに感じる「違和感」は、「それは違うよ」と、センサーが反応している証拠。その「違和感」を尊重することは、自分を大切にすることそのものです。
思いを込めて場をつくろう
たとえ、まっすぐに言葉に出来たとしても、それは「活動の場」という巨大な混沌、その豊かさのほんの一部が、切り取られただけです。
「分かりやすく端的に話してください」──。
こういう要求は、日増しに強くなっています。
例えば、様々な経験や思いがあって、子どもたちのために始めた活動を、「地域の子どもたちの健全育成です」と“端的に”説明してしまう。それで、話し手も聞き手もわかったことにしてしまう。
本当に、そうなのでしょうか?
あなたの「思い」は、そこにちゃんと込められていますか?
独善的で、自分たちにしか分からないような“業界用語”で話す、そんな語り方も改められるべきではないでしょうか。特にNPOや市民活動の現場では、そういう身勝手な表現が多々あります。「伝える」ことはこんなに難しいのに、「伝える」ことからはなかなか逃げられません。
でも、嘘の言葉で語るくらいなら、一時沈黙してもいいのです。
なぜなら、言葉に出来なくても、そこには「場」があるからです。「場」は、そこを共にした人に、多くのことを語ってくれます。
心を込めて準備をする。感じたことを大切にする。みんなで話し合うときには、本当に思っていることを伝え合う。「本当のこと」から逃げずに、あなたの目の前の「場」に、あなたの思いとエネルギーを込めてみてください。
言葉にならない思いは、きっと「場」が伝えてくれます。
(文・長田 英史)