はみ出しこそが希望
あなたが場をつくっている、あるいはこれからつくる理由は何でしょうか。人によって理由は様々ですが、共通しているのはあなたが必要とする場が今の社会にはないということです。この発揮されていない「何か」は、あなたが既にはみ出している部分です。このはみ出しが場づくりの源泉であり、あなたの可能性です。
はみ出すことは怖いことか
「あなたは既にはみ出している!」と言われたら、どんな気持ちになりますか?
「あ、やっぱり分かる~?」のような軽い感じでしょうか。それとも、「失礼だなぁ。別にはみ出してなんかいませんよ」と、ちょっと不快に感じるでしょうか。あるいは「そ、そう!?(本当にはみ出しちゃってたらどうしよう…!)」と、心のなかで不安を感じるでしょうか。
この受け取り方に、良い悪いはないのですが、相当の「個人差」が存在するようです。はみ出していると言われてうれしい! という人もいるでしょう。
今回のテーマは、「はみ出す」ことについてです。感情的な反応は脇に寄せて、場づくりとの関係で読み取ってください。
場をつくる人は、はみ出している人
結論から言うと、「場づくり」をしようというような人は、大抵はちょっとくらい「はみ出して」いる人たちです。
理由は、自分で場をつくろうとしているから!
自分で場をつくる必要があるのは、ちょうどいい場が、自分の身の回りには存在しないからですよね。似たようなものはあっても、本質が違う。だからこそ、自分で場をつくる必要感が生まれます。(ちょうどいい場があれば、そこへ出向けばいいわけですから。)
あなたがその場を必要とする理由
もう少し丁寧に表現すると、こうなります。
自分の内側(心のなか)と、外側(社会)が、それぞれあります。そして、自分の内側には、「発揮したい何か」があります。それがどんなものなのか、適切な名前が付けられるのか、それはわかりませんが、その「何か」は日常の場では発揮されない。そういう時に、その「何か」を発揮(あるいは表現)するために、それが可能な「場」を、外側につくり出す必要が生まれます。
内側と外側のアンバランス。これが、「場づくりの必要感」の正体です。
はみ出していることは希望であり可能性
つまり、日常の制限から、既に「はみ出して」いるわけです。露骨に分かりやすくはみ出していなくても、内側には、日常の様々な場では発揮しきれない「何か」を抱えています。こういう言い方が適切でないケースもあるかもしれませんね。でも、こういう観点でとらえてみると、必要感が際立ちます。
「はみ出している」という言葉に、抵抗を感じる人もいるでしょう。「はみ出し者!」なんて言われると、抵抗感はさらにアップ(笑)。でも、この「はみ出ている部分」は、希望であり、可能性です。
その人が自分の「はみ出し部分」を大切にして「場」をつくれば、新しい価値や困難な問題の解決策が生まれるかもしれません。
はみ出しを「場」として表現する
とはいえ、なにかと「和」と「協調」を求められる日本社会では、はみ出すこと、目立つことへの抵抗感はとても大きい。大きいのですが、基本的には気にせず好きにやればいいのです。
「はみ出すこと」は、争うことではありません。目立つこを過剰に恐れないでください。所詮、狭い世界の出来事です。自分に「はみ出している部分」があることを、文句や落胆、自分への弱小感につなげても、何にもなりません。
でも、それを「場」として表現すると、希望が生まれます。
その「場」がある日常と、その「場」がない日常では、傍目には同じようでも、当事者には大きな違いがあります。
(文・長田 英史)