比較ばかりしていると気がつけないこともある
比較するという態度は、それが有効な場合が多いために、現代人にはもうすっかり染みついていると思います。ネットで商品を買うときも、ささっと検索して比較。とても簡単です。ただ、場づくりでは、比較する態度は取り扱い注意です。
客観的でない比較はすべてネガティブ
「あの人はすごい。自分なんかダメだ…」
比較対象の一面だけを見て、曖昧な自分のイメージだけで、こんな風に判断してしまうことがありまんか? これでは、比較する意味がありません。
いやいや、自分はそんなに卑下してないよ!という人でも、逆パターンがあります。
「あいつらはたいしたことない。自分はすごい」
これは一枚のコインの裏表。調子がいいのか、悪いのか、というだけの差です。
比較は、客観的でない限り、常にネガティブです。
どうせ比較するなら、エクセルか何かで表でもつくって、様々な項目で、客観的な態度で比較するといいのです。そうすれば、表面化していない意外な項目の差が、目に見える差につながっていることに気づくかもしれません。比較もそこまでやれば、具体的な施策につなげられますが、イメージの領域に留まっているなら、意味がありません。
そのイメージ、信頼して大丈夫?
インターネット社会になり、画面上の加工された写真と短いテキストだけで、人を評価する世の中になりました。
雰囲気だけ、ムードだけ、はりぼてみたいな情報の数々…。
こういうものと、無意識に自分を比較してしまい、曖昧な“トレンド”にすり寄って、“いけてる人”を演じる。こういうことは、不器用な人には無理なのですが、ちょっと器用な人は難なくやれてしまいます。
こうした行動の根底には、比較する心があります。演じていると、自分でも分からないことについて語ったり、他人の考えを自分の本心のようにして語ったりすることになります。
エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』でこう述べています。
偽の自我を表現することは、弱小感や劣等感の根源である。
比較ばかりしていると本当の自分を表現出来ない
比較する態度は、本当の自分を表現する妨げになります。自分の内なる豊かさに気づけないからです。
様々な場にいるときに、自分がどう感じているのか。まずは、それを自覚することから始めてみてください。
なにかの場が終わったら(例えば職場を出たら)、一人の時間を持って、何を感じていたのか書いてみます。この記述は、「記憶をたどる作業」です。時間軸にそって、何に注目し、何を感じ考えていたのか。
それを正直に書くだけで、自分がクリアになっていきます。
(一度だけでなく、ある程度の継続が必要です。)
こうした自己客観視は、内なる豊かさの発見につながります。場づくりをする人は、外に目を向けて情報を集めるだけでなく、もっともっと自分の内側にも目を向けてほしいと思います。
あなたの内なる豊かさを、あなたのかかわる場で活かしてください。
(文・長田 英史)