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「もてなされる喜び」と「自分でやる喜び」がある
有名百貨店の接客は丁寧で洗練されていて、自分が「大切にされている」と感じられます。こうした体験はすばらしいのですが、本質は購買体験=消費体験であり、お客はどこまでも「お客=もてなされる側」です。こうした「もてなされる喜び」がある一方で、「もてなす喜び」や「自分でやる喜び」があることを忘れていませんか?
参加者が「自分でやる」余地を残す
子どもたちと「おいしいカレーを食べる会」を開くとして、あなたならどんな会にしますか?
どんな流れ(スケジュール)にしたら楽しいでしょうか?
(ちょっとイメージしてみてください。どんな発想が出てきますか?)
例えば、こんなのが考えられます。
・前日に買い出し
・当日早朝に下ごしらえと仕込み
・10時に子どもたち集合
・子どもはレクリエーション(その間に大人がカレーを仕上げる)
・ランチでカレーを食べる
こんなパターンは、いかがでしょうか。
準備万端ですね。子どもたちがあそび終わる頃には、おいしいカレーが待っています。これも楽しそうですが、次のような流れも考えられます。
・朝一番で子どもたちとカレーに入れるものを決める話し合い
・炊飯、カレー、サラダなど、役割分担とチーム分け
・みんなで手分けして買い出し
・各チームで調理
・出来上がったら「いただきます!」
前者は、子どもたちは「もてなされる側」です。
後者は、部分的にですが、子どもたちが「主体=主人公」になれます。
子どもたちを対象にしたかわいらしい会を例にしましたが、これはただの例です。こうした構造は、様々な場に応用することが出来ます。
「自分でやる」を組み込む方が難易度は高い
もちろん、後者の方が大人は大変です。
カレーとサラダは、子どもがつくるより、大人が作った方がはるかに楽です。刃物も危ないし。そして、何より片付けもずっと楽そうですよね。
ただ、子どもたちにとっては、どうでしょうか?
「もてなされる側」では得られない楽しさがあるはずです。
もちろん、難しさもあります。役割を独占したい子が出てきて調整が必要になったり、自分のアイデアを出した子どもがいても周囲から同意が得られなかったり。参加の喜びは、そうした小さな試練の向こう側に広がっているからです。
すべて自分でやってしまう前に立ち止まって考えよう
もてなすのが好きな人や場を取り仕切る力量のあるは、ついついすべてを自分でやってしまいがちです。でも、その場の目的に照らしてみれば、至れり尽くせりの「豪華なカレー」が正解とは限らないはず。このような場の目的と現場の不一致というような大きな課題感ではなくても、例えばこんな風に感じることがあります。
「なんかちょっと上滑りしている気がするな…」
「なんだか場に元気がないな…」
こんなときは、その場のなかに「自分たちでやる」要素を組み込んでみませんか? そうすることで、場を活性化させられる場合があるからです。
まとめ:「やらせ」にならないように注意しよう
最後に、注意すべき点があります。
「自分たちでやる」は常に正義ではありません。先ほどの子どもたちのカレーの会の例ですが、そもそも最初から「カレー縛り」ですよね。そこまでは、大人(主催者)が勝手に決めているわけです。カレーが苦手な子もいますし、うどんや手巻き寿司が食べたい子もいます。食事作りではなく、外であそびたい子もいるはずです。
ですから、こうした場を「子どもたちの力でやっています」と簡単にまとめてしまい、考えることを止めてしまわないでください。
主催者にとってやりやすい「限定された範囲での自治」に終始していていいのか、枠組みそのものが(良い意味で)壊れていくことがあってもいいのではないか──そんな広がりのなかで場づくりしてみませんか?
(文・長田 英史)