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活動の目的をゼロから考える

「健全さ」「正しさ」から自由になる

自分の活動の目的を自分の言葉で語る。当たり前のことのように思えて案外難しいものです。社会に存在する「健全さ」「正しさ」に自分の活動を引き寄せるのではなく、あなたが「本当に思っていること」を見つけるための「問い」を見つけることで、自分の言葉で語ることができるようになります。

健全は思考を停止させる

なんとなく「健全で正しい」と感じる言葉というのがあります。僕がイメージするのは、例えばこんな言葉です。

まちづくり/つながりづくり/地域活動/民主主義
選挙に行く/子ども・若者の活動/NPO…

…たくさんあります。

こうした「健全ワード」は、一人ひとりの思考を停止させ、自分で主体的にそれを選び、選んだからこそ責任を負うという、活動に求められる姿勢を曖昧にしてしまいます。

数年前、NPOの代表をしている二十歳の若者が、選挙に関する動画を、「小学4年生の作品」と偽ってネットに流し、問題になりました。

こうしたことが起こる背景には、子どもの意見をありがたがる、「健全さ」を利用する大人社会の闇があると、僕は考えています。

今回は、「時事問題」としてこのニュースを取り上げるのではなく、このことから出てきた、僕自身の問題意識を書こうと思います。

あなたの活動のアイデンティティは何か

若者がNPOなどの社会的な活動に参加する例が増えています。「若者」は、NPOの世界では、トレンドキーワードです。しかしながら、僕自身の気持ちを正直に述べれば、その底の浅さに、残念な思いをすることもあります。

興味を持って話を聞いても、きれいなWEBサイトをみても、なにをやりたいのか、なにがいいと思っているのか、よく伝わってこないことが多いからです。健全ワードに覆われていて、アイデンティティが見えません。

これは若者に限ったことではありませんが、活動しているのに、なぜ自分がそれをするのかということが、一度も問われていない。なんとなくいいことだから──で最初から最後までやってしまう。これでは、活動の目的は主体化されず、借りものでしかありません。

若者の場合、周囲からちやほやされ、優越感を得て、またそれを利用してなにかをしようという大人も出てきます。

若者どころか、子どもに代弁させるような活動もあります。(この問題については以前Facebookに書きました。)活動する人は、自分の活動の動機を偽らないでください。
「健全ワード」ではなく、自分の言葉で語ってみてください。

自分の言葉で語る

自分の言葉で語るためには、自分に向き合う必要があります。それは、他者や社会など、注意を自分の外側に向けるのではなく、自分の内側=自分が感じていることにフォーカスすることです。

なんとなく正しそうだから、自分もそちら側につく。正しさを補強する情報だけを集め、仲間どうし補い合う。

「原発を止めよう」と主張している若者のなかには、本当に本当のところで、自分に向き合い、冷静に考えて、それを「止めるべき」と結論づけた人もいるでしょう。

しかし、なんとなくそれがよさそうだから、みんながそう言うからなど、そういうレベルでそう主張している人も、実際には大勢いるでしょう。まさに、そうした感性が、「原発」(あるいは原発的なもの)をつくり出した──そう考えることもできます。

原発を止める運動で、仮に原発を止めることができたとしても、その結果、次の世代に痛みをもたらす「原発的なもの」を再生産してしまっては、なんの意味もありません。

活動の主体化というのは、それほど大切なことなのです。

セルフ(魂)とドクサ(社会通念)

宮城教育大学の学長だった林竹二さんは、ギリシア哲学の専門家で、ソクラテスにならって、こう述べています。

「常識の吟味が、浄化をもたらす」

「正しさ」とか「健全さ」は、強い力を持っています。それは、人の判断を停止させてしまう力です。日常生活のなかで常に再生産され、補強され、城壁のように、「わたしの本当に思っていること」を覆い隠します。

ギリシア哲学では、「本当に思っていること」の核の部分、つきつめてつきつめて、一番中心にある魂とも言うべき領域を、“self(セルフ)”と定義しています。

一方で、その周囲を包囲するように貼り付いている、「正しさ」「健全さ」に代表される社会通念や常識を“doxa(ドクサ)”と定義しています。

目玉焼きに例えれば、黄身が“self”で、白身が“doxa”です。

弱さに向き合い、問いを見つける

かつて「癒し系」という言葉ができて、「癒し」は産業化され、消費のバリエーションへと陳腐化されてしまいました。

NPOなどの「社会貢献活動」も、デザインばかりが洗練され、とっつきやすくなり(このメルマガでは「キラキラ系」と呼びました)、商品化が進んでいます。洗練された消費の一形態…かもしれません。

「なぜ、自分はその活動をしたいのか? その場を求めるのか?」この「問い」は、回答を導いて終わり、という種類のものではなく、活動のなかで、繰り返し直面し、深めていくための「問い」です。

自分の弱さから目を背け、「健全さ」に魂を売る必要などないのです。問い続けることこそ、活動する人の責任です。

弱さに向き合うこと、不安に向き合うこと、ありのままを認めること。それらは無視すれば呪縛になりますが、光を当てれば強さに変わります。

「なぜ、自分はその活動をしたいのか? その場を求めるのか?」そう問いかけることで、目玉焼きの白身が決壊して、黄身が流れ出す。ギリシア哲学では、それを“katharsis(カタルシス)”と呼びます。(日本語で言い換えれば、「浄化」です。)

忙しいと、日々の活動を進めて行くことばかりに集中しがちですよね。活動の「目的」を、ゼロからみつめなおしてみませんか?

*林竹二さんの著書「問い続けて」(Amazonへのリンク

(文・長田 英史)