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答えではなく問いをシェアする

答えではなく問いをシェアする

みんなが同じ考えで大丈夫?

あなたの場には、「答え(正解)」がありますか?

何らかの活動の場がつくられるとき、既に答えが用意されている場合があります。「答え」の存在の仕方はいろいろです。

「こういう間違った考え方に反対し、正しい考え方を広める」
「難しい問題だが、◯◯さんの出した答えなら信頼している」
「これが正しい答えなのに、まだまだ人々の理解が足りない」

どの考え方にも「答え」が存在しています。それで本当に大丈夫なのでしょうか?

与えられた答えを盲信すればカルトになる

極端な例ですが、絶対的存在としての教祖がいるカルト集団などは、「答え」を共有した組織と言えるでしょう。

考えることをやめ、判断を教祖に委ねてしまいます。教祖の言うことを盲信するからこそ、凶行だってあり得ます。多くの人がカルトを警戒しますし、距離を置こうとするでしょう。カルトによる悲惨なテロを経験した日本では、そうした反応は当然ですし、そのような注意深さは必要でしょう。

でもこの話、いわゆる“カルト”に限ったことでしょうか?

同じような構造のなかで、“教祖的なもの”にすがって、自分で考えることをやめている場合も多々あるのではないでしょうか?

自分で考えない・自分で決めない人たち

強い人、精神的支柱のような人の近くで活動していると、自分まで強いのだと勘違いしてしまうことがあります。実際は、その人の近くにいることであるリアリティが補完されているだけで、自前のものではありません。いわば精神的なドーピングです。

そこに豊かさがあったとしても、それは自前の豊かさではありません。

僕には師と呼べる方がいましたが、若い頃、その方の近くで働ける機会を辞退したことがあります。それは非常に魅力的なオファーで、考える余地なく飛び込めばいいとも思えたのですが、僕のなかの何かがそれを押しとどめました。

それは、自分がいわばドーピング状態、かさ上げ状態にいると、薄々気づいていたからです。

師の近くにいると、発見や驚きがたくさんありました。正直「自分はスゴイかも!」と思えることも多かったです。でも、一人になると、その感じは次第に薄れていきました。自分一人で場をつくると、そこには必要な密度がありませんでした。

大樹の下で、虎の威を借りている自分に気づきました。

そこで僕は師の近くで働くことをやめ、自分の地域で場を開きました。この経験は、僕の場づくりの重要な部分につながっています。もちろん、僕の師匠が教祖的なふるまいをしていたわけではありません(むしろ、その対極のような人でした)。それは僕自身の問題でした。

「どこかに所属していれば安心」が一番危ない

先程「大樹の下で、虎の威を借りている自分」と書きましたが、この構造は珍しくないようにも思えます。それは例えば、「どこかに所属していれば安心」というような考え方です。

地域や業界のメインストリームにいる人は、主流だというだけで、正しいわけではありません。よく「お墨付き」と言いますが、そういうものへの依存は、自前のリアリティが希薄なことの裏返しです。自分で考えて、自分で判断し、その上で場をつくる必要があります。

また、近頃は「エビデンス」があるとかないとか簡単に言いますが、どこのだれがどんな方法で調べたのかも知らずに「エビデンスがあるから大丈夫!」などと言うのは、カルトの対極にいるようでいて、カルト的な態度だと言えるでしょう。

問うことを止め教祖的な存在に依存してしまう。
「答え」や「答えをくれる人」を探してしまう。

それは、人の精神が基本的に不安定なためでしょう。人の心の不安定さは、生身の人間の本質だとも言えるでしょう。

それでは、どうすればいいのか。

「答え」ではなく「問い」を共有するというのはどうでしょうか。その「問い」の下に集まり、問い続けながら活動することを自らに課すのです。

まとめ:「答え」がないからこそ場をつくる

「答え」がわからなくても、場をつくっていいのです。
教祖などいなくていいし、あなたが教祖になる必要もありません。

教祖のふりをしている人、いますよね?
怪しげな人、ネットにもいっぱい出てきます。

また、「分かっていない人たち」に「答えを教えてあげる」というスタンスの人たちもいます。何を信じてもどう考えても自由ですが、別の分野においては自分も「分かっていない人たち」の一員になり得るし、様々な考え方があり、自分の考え方も変化し得るという客観性を持ち合わせている必要があるはずです。

答えなど分からない──そう堂々と言っていい。分からないから場をつくらないのではなく、分からなくてもやるのです。

・・・・・・・・・
分からないからこそ、場をつくるのです。

共有された「問い(を問うこと)」が、場に新しい活力を与えてくれることに気付くでしょう。

(文・長田 英史)