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当事者意識が場をつくる

当事者意識が場をつくる

あなたはプレイヤーですか? それとも…

目の前の場にどんな姿勢で取り組むかは、一人ひとりが自由に選択することができます。目の前の場に文句を言っていたり、だれか他人のせいにしたりしていると、プレイヤー感は得られません。

プレイヤー(当事者)という態度

「研究者でも、支援者でもなく、プレイヤーです」

講座などで、よくこんな風自己紹介します。

活動のなかで得られる「プレイヤー感」は、僕にとってとても大事なものです。「自分が活動者として第一線に立っているか」を計るための、自分なりのバロメーターでもあります。

プレイヤー感」は、どこか安住すると得られません。

達成や成果や社会的評価安住し、キープ走る。
そこ自分の城して、そこから出て行かない。

こういう態度なると、プレイヤー感が失われてしまいます。

そういう生き方、活動の仕方自体は、まったく問題ありません。
僕はただ、自分がそうすることが嫌なのです。

全員がプレイヤーであること

れんげ舎では「全員がプレイヤーであること」を大切にしています。

四半世紀及ぶ注力で、われわれの活動は洗練されました。仕組み化され、体系化され、社会とのかかわりが深くなりました。若い頃と違い、僕自身の知的・経験的蓄積も膨大なり、若く新しい仲間が増えても、簡単には並べてもらえません。そのことを、やりにくいと感じたこともあります。

人の能力は年齢では計れません。また、場の質は個人の力量ではなく、人と人のつながり方によって決まります。とはいえ、力量的な差の広がりは、それが溝のようになってしまうこともあります。フラットな組織においても、そういうことは起こります。

それでも、安住せず挑戦する、自分壊し再構築する安易な答えで妥協せず問い続ける──そんな意思と姿勢を、同じくすることは出来ます。そんな意思と姿勢こそが問われる場では、ベテラン面などしていられません。

力量は違っても、意思と姿勢では肩を並べられるのです。

あなたにはそれにかかわる意思があるのか?

プレイヤー感は、「当事者性」とも言い換えられます。

“お手伝い”でもなく、外から“評価”したり、安全地帯から“支援”するのでもない。自分自身、自分の場で、プレイヤー感を感じている。自分は自分の場おいて、いつも当事者である。

例えば、難病の支援をして活動している人たちがいます。難病を患っている人や、その家族だけが当事者でしょうか? それは違います。その問題に対して心が動き、自分としてかかわりを持とうとするその点において、人は当事者になれるのです。

よく言われる「他人のための活動なのか、それとも自分のためなのか?」というような、幼稚で単純な図式など脇に寄せていいのです。あなたがどうしたいのか? かかわる意思があるのか、ないのか。大切なのはそこです。
活動の場では、いまの自分がしていること自覚的である必要があります。その上で目の前の場コミットすれば、当事者なれます。目の前の通して、自らの当事者性生きることが出来るのです。

どこにいてもプレイヤーになれる

人は、同じことしていると慣れてきます。熟練して、繰り返し上手出来るようなります。それはひとつの達成ですが、自分とっての鮮度が失われたり、取り組むこと充実が得られなくなることもあります。現在ではなく、過去を生きている。それではもうプレイヤーとは呼べません。

現在を生きるということは、いまの自分を壊すこと。簡単ではないかもしれません。

目の前の場に文句を言っていたり、だれか他人のせいにしたり(実際に他人のせいなのかもしれませんが)していると、プレイヤー感は得られません。あなたがどこにいてもいいのです。目の前の場に自分の責任でかかわることで、瞬時に「プレイヤー=人生の当事者」になれます。
(文・長田英史)